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ワン・イーボーのハードボイルドな魅力に痺れる。最上級のフィルムノワール『無名』は必見。

 

 本作はノワール映画の衝撃作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・上海』(16)のチェン・アル(程耳)監督の待望の新作で、香港映画界を代表する(いや、世界かな?)名優トニー・レオン(梁朝偉)と、中国ファンタジードラマ『陳情令』のワン・イーボー(王一博)が共演する話題作である。

 年季の入った香港映画好きとしては、ますます円熟したトニー・レオンの魅力について語りたいところだが、この映画の真の主役はワン・イーボーだ。ワン・イーボーの魅力を引き出すためにこの映画が撮られたとしかいいようのない作品である。

 

5月3日(金・祝)よりヒューマントラストシネマ有楽町、シネマート新宿ほか全国順次公開 Copyright2023© Bona Film Group Company Limited All Rights Reserved
公式サイト:https://unpfilm.com/mumei

 

ワン・イーボー扮する工作員イエの孤独で妥協しない厳しい生き方が魅力的だ。

 前作『ワンス~』と同様に1937~41年の上海が主な舞台である。日中戦争の大転回点にあたるこの時期に監督のこだわりがありそうだ。また前作『ワンス~』と同じくミステリー仕立てになっているので最後まで息をつかせない緊張感が続く。

 ネタバレになるのでストーリーなど書きづらいタイプの映画だが、ここは英題名『Hidden Blade(隠された刃)』が非常に象徴的なタイトルであることを書くにとどめておく。

 

 日本軍、日本の傀儡政権の中国人加担者たち、共産党や国民党のスパイ、国民党兵士、黒社会、殺し屋と美女、恋、魔都上海の闇…。敵なのか味方なのか。戦下の混沌としたアンダーグラウンドの世界で魅惑のチェン・アル監督ワールドが展開する。

 中華民国・汪兆銘(親日)政権の政治保衛部に所属するフー(トニー・レオン)は、共産党の秘密工作員だった男ジャン(ホアン・レイ 黃磊)と接触、中国国民党に転向するというジャンから中国共産党幹部の情報を聞き出すそうとする。また、フーは任務に失敗し処刑寸前だった国民党の女スパイ(ジャン・シューイン 江疏影)を密かに逃がし、代わりに上海在住日本人の要人リストをなぜか入手する。

 一方、フーの若い部下イエ(ワン・イーボー)は、上海駐在日本軍スパイのトップの渡部(森博之)とも通じているが、恋人のファン(チャン・ジンイー 張婧儀)は日本人に尋常でない恨みを抱いていた…。

 一筋縄ではいかないスパイ合戦の裏のまた裏。戦火が深まるなかでの謀略と謀殺。戦局が厳しくなるにつれ、彼らの真の姿が明らかになっていく。

 

汪兆銘政権の政治保衛部エージェントたち(左からワン・イーボー、トニー・レオン、エリック・ワン)と日本軍スパイのトップの渡部(森博之)。

 

 チェン・アル監督は『ワンス~』もそうだったが、本作でも時系列を解体して複雑に組み合わせる構成を取っているので、注意深く見ないと置いていかれる。冒頭のシーンだからといって冒頭ではない。同じシーンが何度か出てくる。起承転結もバラバラだ。見ていて緊張感が続くのはそのせいもある。しかし、物語の起承転結はラストできちんと辻褄があう。見ていて「なるほど」と腑に落ちた快感がある。

 時系列をバラす語り口は、チェン・アル監督が「タランティーノが好き」と語っているのでよくわかる。タランティーノ監督作では『パルプ・フィクション』が好例だろう。クリストファー・ノーラン監督作『メメント』、セルジオ・レオーネ監督作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』なども時系列を変えることで大きな成果を上げた作品があり、チェン・アル監督も見ていると思う。時系列をバラすことで、ミステリーのパズルが完成していく感じが見ていて快感だ。

 

 私にはチェン・アル監督のノワール2作品(『ワンス~』『無名』)が、フランスのフィルムノワールの巨匠ジャン・ピエール・メルヴィル監督作品を想起させた。特に第二次大戦を舞台にナチスと厳しい攻防戦を繰り広げるフランスレジスタンスたちを冷徹に描いた『影の軍隊』と、アラン・ドロンが殺し屋を演じた『サムライ』両作に似た映画的感性を感じた。

 先日『サムライ』を再見したが、孤独な殺し屋を演じたドロンの魅力に痺れた。確か三島由紀夫が絶賛した映画評を読んだ記憶がある。この一作でドロンはフィルムノワールの旗手になる。同監督とはその後『仁義』『リスボン特急』というフィルムノワールの傑作群を世に送り出した。

 『無名』のワン・イーボーと『サムライ』のアラン・ドロンに共通したイメージを感じた。無口(セリフがほとんどない)な殺し屋ドロンが仕事(!)に出かける前に鏡の前で身だしなみを整えるシーンがある。トレンチコートの襟を立て帽子をかぶり、帽子のつばをスッとなぞる仕草がドロンの冷たいイケメンぶりと相まってゾクッとくる魅惑の場面だ。

 『無名』ではワン・イーボーが同じように鏡の前で身だしなみを整えるシーンが何度かある。ダークスーツに身を固めて、ネクタイを結ぶシーンだ。喜怒哀楽を押し殺した、あるいは喜怒哀楽を失ったような醒めた表情のワン・イーボーの美貌が輝く。両者ともまるで戦闘服に着替えた兵士にも見える。

 

 チェン・アル監督の前作『ワンス~』にはワン・イーボーのような美貌のスターは出てこない。日本の浅野忠信や中国の芸達者俳優たちの競演だった(厳密にいえばチャン・ツィイーが出演してるが芸達者俳優の一員に見えた)。

 『無名』はワン・イーボーのような美男スターの登場で、映画の質的な高さとは別に映画自体に「華」が感じられる。「華」はアラン・ドロンも同様だ。ジャン・ピエール・メルヴィル監督も「華」が必要だった。「華」は言い換えれば美とスター性の輝きだ。ドロンの出ない『影の軍隊』には華がない。華は必要としない映画だともいえる。

 ワン・イーボーは現代中国を代表する若手スターだが、日本で言えば昭和10年代の映画スター上原謙のような髪型とクラシカルな服装に身を包むとき、最も輝いて見える。182センチという長身も映えがいい。とにかくカッコいい。

イエ(ワン・イーボー)と恋人ファン(チャン・ジンイー)。二人のシックな装いが魅力的だ。イーボーの髪型に注目。

 すでに様々な記事が出ているが、本作品ではトニー・レオンとワン・イーボーのスタントなしの壮絶なアクション(格闘)シーンがある。私からするとほとんど命がけとも見えるこのアクションシーン撮影は大変だっただろうなと、特に年齢も年齢のトニーをおもんばかってしまうが、動き(アクション)だけではなく、内心にそれぞれの思いを秘めた二人の表情、演技も見ものだ。このアクションシーンでのワン・イーボーの突進ぶりは、見ていて恐怖を感じさせる強靭さがあった。

 

 『ワイルドブリット』や『ハード・ボイルド』や『月夜の願い』や『シクロ』の頃の若きトニー・レオンがこの映画のワン・イーボーの鏡の前の仕草を演じたら、これもさぞかし魅力的だったろうと想像できる。勝手な想像だが。鏡のシーンといえば『欲望の翼』のラストシーンのトニーを思い出してしまう。

 ワン・イーボーはこの作品に出演した年は、他に2本の話題作・大作に出演しているという。今、中国映画界で最も光る存在だ。

 ワン・イーボーはすでに本国やアジアでは大きな人気を得ている。娯楽作に出演しながらも、ジョン・ウー(呉宇森)やホウ・シャオシェン(侯孝賢)やウォン・カーウァイ(王家衛)を始めとする名匠や才能ある監督たちの野心作に次々とチェレンジしていったトニー・レオンのように、本作のチェン・アル監督を始めとする才能ある監督たちとの出会いが、ワン・イーボーをもっと飛躍させるだろう。

 容姿と演技力とガッツを兼ね備えた、中国を代表する映画スターになれる逸材と見た。

名女優ジョウ・シュンも重要な役で出演。この涙は…。

 そういえば…本作の女優や脇役についてまったく書かなかったのだが(汗)、中国を代表する女優ジョウ・シュン(周迅)やエリック・ワン(王伝君)、森博之(好演!)など魅力ある脇役陣である。2023年、中国の第36回金鶏賞で最優秀主演男優賞(トニー・レオン)、最優秀監督賞、最優秀編集賞を受賞。

 チェン・アル監督は2作しかみていないが、両作とも映像美が素晴らしい。画面設計が重厚で、静けさの背後に薄氷を踏むような恐ろしさを感じる。静から動へ、突如としてショッキングな場面に移行する演出も見事だ。画面の中での人物配置や人物の切り返しのショットは緊迫感を醸し出し、人物アップは登場人物=俳優の内心を映し出す。

 これは劇場の大きなスクリーンで見るべき映画だと思う。

 あ、最後に一言。ワン・イーボーは日本語も話します。トニー・レオンは「普通話」も話しています。

この映画では監督の演出と編集で真実は変幻自在だ。各場面でのトニーの表情や目の演技を再確認するために映画をリピートしたくなる。

 

柚木 浩(コミック編集者/映画ライター)
『香港電影城』シリーズの元編集者&ライター。
香港映画愛好歴は、『Mr.Boo!』シリーズを日本公開時に劇場で見て以来。
火が点いたのは『男たちの挽歌』『誰かがあなたを愛してる』『大丈夫日記』『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』あたりから。
好きな香港映画は1980年代後半~90年代前半に集中しているが、2000年以降のジョニー・トー作品は別格。邦画、洋画、韓国映画、台湾映画も見る。ドラマは中国時代劇、韓国サスペンス系。好きな女優、チェリー・チェン。