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プロデューサー/監督:ピーター・チャン 脚本:シャン・ヤン、ジャン・フォン、シー・リン、パン・イーラン 撮影監督:ジェイク・ポロック 美術:スン・リー 衣装:ドラ・ン 編集:ウィリアム・チョン、ジャン・イーボー 音楽:ユー・フェイ、ナタリー・ホルト 94分 カラー 2025
ピーター・チャン監督の久しぶりの監督作品『She Has No Name』が東京国際映画祭2025にて上映された。鑑賞後、同映画祭のピーター・チャンのマスタークラス(講演)を取材した。
ピーター・チャンは、比較的近年ではデレク・ツャン監督(あのエリック・ツァンの息子だ)の2本の佳作(『ソウルメイト/七月と安生』<2016>『少年の君』<2019>)のプロデューサーとして記憶に新しい。『少年の君』は香港アカデミー賞作品賞など4冠を制し、米アカデミー賞候補にも選ばれた。同じくプロデュース作品として、金城武&チョウ・ドンユィ主演のラブコメ『恋するシェフの最強レシピ』(2017)もあり、いずれもピーター・チャンカラーの質の高い作品で、感度のいい製作者として活躍している印象だ。
ピーター自身の監督作では、ヴィッキー・チャオ主演『最愛の子』(2014)のあとに『奪還』(2020)という中国女子バレー代表を描いた作品があるくらい(これは日本では一般公開されず筆者は未見)で近年は寡作だっただけに本作を大変楽しみにして劇場に足を運んだが、期待を裏切られない力のこもった作品であった。
本作はまずカンヌ映画祭でお披露目され、続いて上海映画祭でも上映された作品で、ピーターがマスタークラスで語った話によると、ウィリアム・チョンの力を借りてカンヌ上映バージョンを再編集した上海映画祭上映バージョンを今回東京国際映画祭で上映したとのことだ。カンヌ版は2時間38分で今回の上映版は94分。ほぼ半分に近い。ここらあたりの大がかりな改変事情に関しては後述する。
さて、本作は1944年、日本占領下の上海で起こった殺人事件を描いている。主婦のジャン・ジョウ(チャン・ツィイー)は、夫(エリック・ワン)を殺害(その遺体を16部分に切断)した容疑で逮捕される。彼女の犯行と決めつける警察署長(雷佳音)による尋問と、彼女に自白を強いる目をそむけたくなるような虐待に耐え、ジャン・ジョウは無罪を主張する。
やがて法廷が開かれ、その法廷経過が世間の耳目を集め、女性ジャーナリスト西林(趙麗英)の記事によるキャンペーンも功を奏して、世間の目は彼女の貧しい境遇と夫の虐待に関心が高まり、男尊女卑社会への批判となっていくが…。

1944年、日本の敗戦は目前に迫っていた。傀儡政権下の警察官僚たちは上海逃亡のための軍資金作りで賄賂も横行し、世相は大混乱していた。ヒロインのジャン・ジョウは貧しい家庭の生まれで文字も読めず、結ばれた夫は質屋を経営していたが博打で身を持ち崩し多額の借金を作り、博打に負けて帰ると彼女を殴る蹴るなど虐待する。
このあたりは目を覆いたくなるような描写で、ノーメイクどころか、顔中傷だらけで腫れた顔の妻を演じるチャン・ツィイーの体当たりの演技が光る。メインビジュアルになっているスチール写真を見た時には、これがチャン・ツィイーだと分からなかったくらいである。
劇中、イプセンの戯曲「人形の家」が演じられる芝居風景が当時の娯楽として描写されるが、「男性に隷属しない女性の自立」をテーマにした戯曲だけに、本作のテーマと二重写しになる。
ただし、ピーター・チャン監督はマスタークラスの講演で、「本作をフェミニズムの文脈だけで語ってほしくはない」と語っていた。「結婚生活は複雑でパーソナルな人間関係であり、DVも相互依存関係ともいえる」と語っている。

ピーター・チャン監督作はこれまでも一筋縄ではいかない作品が多い。二重構造三重構造なのである。
ピーターの大ブレイク作『君さえいれば 金枝玉葉』(1994)も良くできたラブコメあるいは業界物といえる作品だが、男性として目の前に現れたアニタ・ユンを愛してしまったレスリー・チャンが自分は男性を愛してしまったのか悩むという場面には、「多様性」を先取りしたテーマも見え隠れする。
ドニー・イエン×金城武の『捜査官X』(2011)も無類に面白い映画だが、単純にドニーのアクション巨編というわけではなく、物語構造が複雑で、前半は金城武が探偵(捜査官)のミステリー的展開、この前半が従来の香港アクション映画にはない個性的な語り口である。そして後半はドニーのアクション炸裂、しかも相手はジミー・ウォングや80年代香港を代表するアクション女優クララ・ウェイだ。「果たしてドニーの正体は?」という全編を貫く謎もある。
ジェット・リー×アンディ・ラウ×金城武の『ウォーロード 男たちの誓い』(2006)もまた一筋縄ではいかない。ピーターは世間の期待感の裏をかいて、ジェット・リーを使ったドラマ重視の大作を撮った。
原題の「投名状」とは男同士の約束・誓いといった意味で血判状的なものだが、この映画では掟を破った者をたとえ兄弟分であっても殺さなければならないという誓いだ。
かつてティ・ロン主演『刺馬』(1970 ジョン・ウーが助監督)という映画があったが同じ題材で、清末4大事件といわれる「両江総督殺人事件」を扱ったものだ。ピーターはマスタークラスで「私はジェット・リーを使ってカンフーアクション無しの映画を撮ってしまいました(笑)」とおどけて語ったが、素晴らしい叙事詩的な映画である。
この作品は香港アカデミー賞3部門を受賞、ピーターが最優秀監督賞、ジェット・リーが主演男優賞を受賞した。個人的にはナイーブな弟分を演じた金城武あっての映画だとも思うが、ほぼカンフーアクション無しのジェット・リーに主演男優賞を獲得させたピーター・チャン監督の手腕を讃えたい。全編を通して地味な配色でリアリズムに徹し、金持ちや立場の上の者たちがひたすら貧しい者を虐げる「格差社会」を終わらせたいというジェット・リーの理想が野心で崩れ去るラストも秀逸だった。スーパースター3人を使って裏テーマを浮き上がらせたピーターらしい映画だった。
『She Has No Name』に戻ろう。
原題の『醤园弄・懸案』はネットで検索して日本語訳を見ると「ソースガーデンレーン未解決事件」と出る。醤油工場が立ち並ぶ通りの建物の一角に住む主婦が夫を殺してバラバラにした実際の事件を題材としていて、有名な事件なのでTVドラマや映画にもなっているという。1940年代日本占領時代末期という時代背景も重要だ。
ピーターが語ったところによると2015年にこの題材の小説を読み、チャン・ツィイーに声をかけ一緒に映画化を目指したという。なのでチャン・ツィイーは本作ではプロデューサーも兼ねている。


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夫役のエリック・ワンはワン・イーボー主演の佳作『無名』(2021)でやはり日本占領時代の傀儡政権のスパイ役を演じて、敵役だがいい味を出していた。本作でも妻を虐待する夫役で暴力をふるいながら悲しみに満ちた眼差しが印象的だった。※今回の東京国際映画祭2025では『春の木』にて主演男優賞を受賞した。
チャン・ツィイー扮する主婦ジャン・ジョウが冒頭でカバンを埠頭で放り投げるシーンから本作は始まり、その後、殺人事件が発覚。バラバラにされた男性死体には頭部がなく、また首の部分の傷跡に合う凶器が見つからず難事件の様相を呈し、警察署長が自ら捜査を担当する。自白に持ち込みたい警察署長の暴力的取り調べの最中、彼の腕を掴んで、強い憎悪の眼差しでジャン・ジョウが彼を凝視するシーンが白眉だ。この時のチャン・ツィイーの表情が衝撃的。思わず署長も後ずさりするほどだ。

留置場に入ったジャン・ジョウを何かと目をかけ、字が読めない彼女のために新聞記事を読んであげる牢名主に扮したヤン・ミー(ドラマ『宮 パレス〜時をかける宮女〜』等)の演技が印象に残った。ネタバレになるのでこれ以上は語れないが。
筆者はまったく予備知識なしに本作を見たのだが、凶器の不在、被害者頭部が見つからないなど謎も多く、階下に住む若い鍵職人の存在など、捜査過程で共犯を暗示する場面もあり、本作はミステリーサスペンスなのかと思いながら鑑賞していた。ところが途中からは、裁判が始まり男尊女卑的社会通念への批も含め法廷社会派ドラマなのか、ピーター・チャンらしい一筋縄ではいかない、先が見えない展開に手に汗を握ったまま見終わって呆然とした。物語は終わっていないではないか!
その答えが先述した「カンヌ映画祭バージョン」との違いで、2時間半以上あったカンヌ版は本作の後の時代のドラマも含んだもので、その後、戦後の国共内戦から共産党政権時代を生きるジャン・ジョウらを描く後半があるらしいのだが、こちらを切り離して続編としてもう1本作るということで、本作は「前後編の前編」だったということが分かった。
チャン・ツィイー演じるヒロインのジャン・ジョウはもちろん、女性ジャーナリストや階下の鍵職人の男や弁護士など、本作(前編)の登場人物も引き続き後編で見ることができるし、新キャラも出てくるという。
そうなってくると、「肝心の後編はいつ見ることができるのか?」ということが気になる。ピーターは、マスタークラスで「来年後編を公開できれば」と語っていて、筆者としては来年の東京国際映画祭でぜひ上映してほしいと思った。その時は、チャン・ツィイーを東京に連れてきてもらえれば大変嬉しいのだが。
前編ではありますが、大変見応えのある問題作なので、ぜひ日本公開をしてほしいものである。
※本稿でピーター・チャンの代表作『ラヴソング』(1996)や大好きな『月夜の願い』(1993)に触れられなかったのが残念。
筆者 柚木 浩
書籍『香港電影城』シリーズの元編集者&ライター。
香港映画愛好心に火が点いたのは『男たちの挽歌』シリーズ『誰かがあなたを愛してる』『大丈夫日記』『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』『いつの日かこの愛を』あたりから。
好きな香港映画は1980年代後半~90年代前半の作品に集中しているが、2000年以降のジョニー・トー作品は別格。邦画、洋画、韓国映画、台湾映画も見る。ドラマは中国時代劇、韓国サスペンス系。好きな女優、チェリー・チェン、チョン・ドヨン、イ・ウンジュ、ヴェラ・ファーミガなど。好きな男優はチョウ・ユンファ、金城武、アラン・ドロンなど。ハリウッド映画、ヨーロッパ映画、韓国映画、邦画など広く見ているがSFファンタジー、ホラー・怪獣映画などジャンル映画も好き。
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