日本と中国の戦いに翻弄された実在の女性としては川島芳子、李香蘭がよく知られていますが、本作『女スパイ 鄭蘋茹(テンピンルー)の死』(徳間書店)で描かられたテンピンルーを知る人は少ないかもしれません。
第12回歴史作家協会賞作品賞の候補作に選ばれた本作を今回は著者の橘かがりさんに書面で質問にお答えいただきご紹介します。
実は、あの映画『ラストコーション』(07)のヒロインのモデルになったのが彼女なのです。橘さんがテンピンルーのことを知ったのもこの作品でした。
「映画を見てから西木正明氏の『夢顔さんによろしく』も読み知りました。テンピンルーのことだけでなく、彼女をモデルにした短編を書いたアイリーン・チャン(張愛玲)にも興味があり書きたいと思いました」
中国の小説家で、のちにアメリカに移住したアイリーン・チャンの短編小説『色・戒』を映画化した『ラストコーション』は、アン・リー監督が手掛けた禁断の愛を描くラブサスペンス。1942年日本軍占領下の中国・上海を舞台に、抗日運動の女性スパイ、ワン(タン・ウェイ)と、彼女が命を狙う日本軍傀儡政府の顔役イー(トニー・レオン)による危険な逢瀬とその愛の顛末を描き、第64回ベネチア国際映画祭では金獅子賞とオゼッラ賞(撮影賞)のダブル受賞に輝いた名作です。
タン・ウェイとトニー・レオンのエロティックなシーンも話題を集め、タン・ウェイはこの作品で一躍トップ女優の仲間入りを果たしました。
映画はドラマティックにかなりの脚色が入っていますが、橘さんの小説は事実を元に、テンピンルーがどんな人柄でなぜ悲劇のヒロインになったのかを解き明かしていきます。
本書の内容説明
1941年上海。日本軍傀儡の特務工作機関「ジェスフィールド76」主任、丁黙邨を暗殺せよ。美貌の女スパイ鄭蘋茹(テンピンルー)に指令が下った。日本人の母と中国人の父。二つの祖国に引き裂かれながら、非情なテロルに身を投じた女性の胸中に去来したものは…。
蒋介石直属の諜報謀略機関、藍衣社とC.C.団は、汪兆銘政府に対して徹底的なテロを繰り広げ、日本軍の占領工作に大打撃を与えた。これに対抗するため日本軍が極秘に設置した特務機関が、共同租界ジェスフィールド路76号番地を本拠とする「ジェスフィールド76号」だった。中国国民党中央執行委員会調査統計局の工作員として引き抜かれた蘋茹は、残忍で冷酷と恐れられるジェスフィールド主任の丁黙邨から情報を盗むため、彼の懐に飛び込む。黙邨の寵愛を受けることに成功した蘋茹に組織から最終指令が下った。だがそれは危険で非情な、後戻りできないものだった…。
(徳間書店公式サイトより)
女優のような美貌とスタイルを持ち、日本語が堪能なことを武器にスパイとしての任務を忠実に果たすも、最後には処刑されてしまう。
そんな彼女を橘さんは「スパイとしては未熟、正義感が強く、志高く、潔い人」と評し、「今まで男性視点で語られることの多かったテンピンルーについて、女性の視点から書きたいと思いました」
女性作家だから書けるテンピンルーの魅力、彼女に惹かれる男性の心理なども浮き彫りにしつつ、「語り部の花野吉平が、戦後35年たち、過去を振り返って書いた終章をぜひ読んでもらいたいです」との言葉どおり最終章では数奇な運命を辿ったテンピンルーの家族や周りにいた人物の波瀾万丈な人生の総括がなされています。
北海道出身の花野吉平は上海陸軍特務部に勤務するも日中和平工作に関与し逮捕された過去を持ち、テンピンルーをずっと心にかけていた人物です。戦後の時代の変化に打ちのめされながらも、縁に恵まれ後世を生きた吉平の平和への願いが心に沁みます。
「これからも歴史小説を書いていきたい」と意欲的な橘さん。次回作にも期待が高まります。
橘かがり
作家 東京都出身。早稲田大学第一文学部西洋史学科卒。2003年「月のない晩に」で小説現代新人賞受賞。昭和史ノンフィクションノベルを得意とする。 著書に『判事の家』『焦土の恋 “GHQの女”と呼ばれた子爵夫人』『扼殺~善福寺川スチュワーデス殺人事件の闇』などがある。